ひとと機械の関わり方について考えさせられる記事を目にしました。
ひとつはクルマについて。
米国日産の初代社長として、またフェアレディZの産みの親として知られる片山豊さんのことば。
「人類は長い間、馬と生活をともにしてきました。馬と移動することで、見たことのない景色や、新しい友人と出会うことができたのです。(中略)ただし、馬はただの移動の道具ではありません。同じ屋根の下で暮らすという意味では家族ですし、一緒に敵と戦う時は相棒でもあります。(中略)言葉は通じないけれど、そこにはコミュニケーションがあるのです。(中略)クルマというのは、こうした馬に取って代わる存在です。便利ならばそれでいいという家電と違うのは、当然だと思いませんか?」
もうひとつはカメラについて。
こちらは、写真家の山形豪さんの文章。
「自分や家族の歩みとともにあり続けたカメラたちには、単なるモノとは違う価値がある。キズや凹みのひとつひとつにすら、思い出がしみ込んでいるのだ。下らない感傷主義だと笑う人もいるだろうが、写真を撮ること自体、多かれ少なかれ個人の感情や感傷に基づく行為だ。それを可能にしてくれるカメラという存在に、特別な思いを寄せるのは当然だろう。ところが、昨今のデジタルカメラには、そのような感情を抱かせる何かが足りない気がする。単なる製品の耐久性とは別次元の、デジタル特有のはかなさというか、長い年月の経過に耐え得るだけのDNAのようなものが備わっていないように思われてならないのだ。これはカメラだけでなく、写真そのもののあり方にも関係している」
特にクルマなんかではそうだと思うんですが、電子的な制御が高度になればなるほど機械的な欠点はうやむやになり、基本性能が悪くても電子制御でなんとか商品としてうまくまとめあげることができてしまう、いまはそういう時代です。
でも、たとえばシフトチェンジしたときにギアとギアが咬み合う瞬間の振動までもシフトノブから掌にヴィヴィッドに伝えてくれるようなよくできたマニュアルトランスミッションからは、機械としてのいいもの感、ホンモノ感、作り手の志を感じることができたものです。
近ごろの機械に愛着がわくものが少ないのは、そういったひとと機械の濃厚なインターフェースが少なくなってしまったせいかもしれません。
はい、祝日の夜もLifeTeriaブログの時間です。
本日は勤労感謝の日。そして田中邦衛さん79回目の誕生日でした。おめでとうございます。
今夜は本職はスタイリスト、でも料理の腕前もプロ級のりやこさんの家で夕飯をごちそうになってきました。
夕方ぞろぞろと集まってきたメンバーは。
まず一番乗りはヒマ人サイキ。そして次に英会話の先生、リチャード。ややしばらくして昨日夕飯を一緒に食べたT田くんの友人など…。総勢5人。全員男性じゃん。男祭。
メンバーを眺めたリチャード、「Sausage Party!!」だって。どんな意味やねん。
幸いその後女性2名も集合して「Sausage Party」ではなくなりましたが…。
・人参サラダ
・わかさぎと小鯵のマリネ
・海老のクリーム煮
・キノコのテリーヌ
・洋梨のコンポートとジェラート
・堂島ロール
今夜は特に海老のクリーム煮がおいしかったなあ。お代わりももらって満腹。
デザートの洋梨のコンポート、洋梨を丸のままコンポートにしたもので、見た目のインパクトがありますね。洋梨にチョコレートソースを掛けてもおいしいんだよ、と言われて半信半疑でチョコレートソースを掛けて食べてみました。なるほど!甘さを控えめにした洋梨にチョコレートソースが良く合います。
ここまでで相当苦しいくらいだったんですが、友人がお土産に持ってきてくれた「堂島ロール」まで腹に収めて、満腹。
祝日のステキなおウチご飯でした。
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